当ブログ「ぼりちゅにてぃ」の著者「ぼり」の詳細プロフィールです!
気軽にご覧くださいましっ。
もくじ
さくっと自己紹介!
まずはかるい自己紹介からっ!
プロフィール
- 名前 大堀 悟(おおぼり さとる)
- あだ名 ぼり、ぼりさん
- 出身 石川県(金沢市の隣町の津幡ってとこ)
- 住所 東京都世田谷区「三軒茶屋」
- 年齢 34歳(1987年3月29日生)
- 体型 でぶ
- 好きな物 ハイボール、固い肉、ぶりっ子
- 嫌いな物 依存、自己犠牲
- 趣味 BBQ、カラオケ
- 職歴 配電盤の工場2年→佐川急便ドライバー4年→板前6年→フリー2年→株式会社リバ邸役員
- その他 元吹奏楽部(パーカッション)
「でぶ=ぼり」って感じで認識してもらえれば十分です。
次、「経歴」的なものいきます。
これまでの経歴(時系列的な)
- 2006年4月 地元の工業高校を卒業して自宅近所の工場に就職。2年で辞める
- 2008年4月 根性試しで佐川急便に入社、4年働く
- 2012年1月 「板前になる!」と24歳で地元を離れ大阪へ
- 2013年7月 1年ちょいで修行先が閉店→地元へ強制送還→金沢の台所”近江町市場”で魚を捌きまくる
- 2013年11月 魚買いに来たお客さんが料亭の元料理長で、赤坂の料亭を紹介され上京。
- 2016年7月 「将来は自分のお店持つ!ってなんか違う」って思って勢いでフリーに
- 2017年7月 出張料理人を1年やって急に完全燃焼したので”板前”そのものをやめる
- 2017年8月 場づくりの為に、全国の拠点をフラフラ巡って勉強、田舎フリーランス養成講座の講師に
- 2018年5月 地元石川県能登地方の限界集落でシェアハウス”ぼりちゅに邸”開始
- 2018年6月 株式会社リバ邸立ち上げと共に役員に
- 2020年9月 おじさんアイドルユニット「三茶ジャパン」結成
色々とややこしくなってきたので、やっぱり「でぶ=ぼり」の認識で正解かと思います。
でももうちょっと聞いてほしいので、ちゃんと自己紹介させてください。
*
ぼくは、地元の高校卒業後、まじでほんと何の目標もなかった人間だけど、ある時BBQの主催してから、自分が作った場で人が楽しんでるのって、めっちゃ嬉しいなって思った。
そして、自分の作った場や空間で「人の記憶に残りたい」と思いました。
24歳の頃です。そして、板前の世界に入った。
6年間の板前修行の中で、
- 自分自身の目標に感じた違和感
- 現代の働き方に感じた違和感
の2つの違和感をもとに勢いで独立。
全然食えない時期もあって借金が100万円にまで膨れ上がりました。
でも、独立と同時に始めたシェアハウスの管理人をする中で、自分の中で大切にしたい想いがクリアになった。
いろんな想いの末、今は株式会社リバ邸というシェアハウス運営会社で居場所をつくりたい人のサポートをしています。
*
ここまでで既に「ごゃごちゃした人生だな」って思います。
でも、ぼくの中では「人の記憶に残りたい」という想いが一貫しています。
そんな自分自身の過去を振り返りながら、現在に至るまでを書いてみたので、どうかお付き合いください。
「平凡」が目標だったぼくが現在の活動に至るまで
自分が大人になって
「働く」(達成!)
「車運転してる」(達成!)
「結婚して親になる」(未達成!)
というイメージが全くできませんでした。
「自分は大人になる前にたぶん死ぬ」と本気で考えてたくらいに一切将来に対しての見通しが立っていなかった。
高校卒業時の自分の将来図は、仕事帰りに「近所の居酒屋で今日オススメなに?」とかって聞いて隣の常連客と一杯やってるハゲた中年男性。
特に多くを望まない、できれば平凡に暮らしたいという考え。
この考え方の根幹には少しぼくの「生い立ち」に関係があります。
複雑だけどめっちゃ明るい実家での生い立ち
ぼくの実家は、じいちゃんの代で夜逃げしています。
親戚は全員福井県にいるのになぜかぼくの実家だけ石川県。
まあでも夜逃げした後に見つかっちゃったみたいで、じいちゃんは74歳になるまで返済を続けていました。(借金完済した次の日に仕事辞めてた)
そんな家庭なので、田舎の割に家がめちゃくちゃ小さいです。
2階の廊下は1m四方しかなく、上がった瞬間に壁で、左と右に部屋があるだけ。
あとぼくには父がいません。(生きてるけど)
あとあと、ぼくが生まれてすぐ両親が離婚していたので知らなかったのですが、実はひとつ年上の兄もいました。(既に結婚して子供もいる)
それも20歳になるまで知りませんでした。ちょっと複雑ですね。
ただ、うちの家族はなぜかみんな明るいです。
何でも笑い飛ばします。たぶんある程度どん底を味わったことから来る「本物の強さ」だと思っています。
そんな家庭にいたので、決して贅沢はできなかったけど基本的にぼくはグレることもなかったし、なぜか反抗期すらありませんでした。
では、なぜぼくが平凡な将来した求めてこなかったのか。
それは、母から「うまい話はない」「大儲けしようとしなくていい」ということを、口を酸っぱくして言われて来たからです。
普通に生活していけることの有り難みを人並み以上に理解している母からの言葉は今も大切にしています。
しかし、当時のぼくは「夢もまあなくていっか」と変な解釈をして、本当になんの目標もなく高校を卒業しました。
当たり障りのない将来図を手に入れたら物足りなくなった
こうして当たり障りのない、「大失敗をしなければいい」という思いをもとにぼくは実家近くの工場に就職しました。
ただ、毎日同じ作業をこなすという工場の仕事は、自分には合っていない事だけは理解できていました。
でも、特になにか行動を起こすわけでもなく「まあ、大人になるっちゃこんなもんか」くらいの感覚で、なんとなくもやもやしたまま「我慢」の2年間を過ごします。
「就職したらまずは3年」の言葉を鵜呑みにして、仕事に「耐える」日々。
転機となったのは1つ年下の後輩の行動。
ちょっとヤンキー気質のあった地元の後輩がある日社長に呼び出されて面談をしていた時に、ヒートアップして社長の目の前で作業着を地面に叩きつけてそのまま会社を飛び出して退職。
後輩に触発されたぼくは翌年、小さな反抗をしてキチンと退職届を出して退職。
基本的に凡人気質だなーって思ってます。
ただ、思い立ったら行動する癖は幼少期から治りません。
*6歳のとき「自転車で目をつむって坂道を駆け下りたらどうなるか」という実験をして、ドブに落ちて大木に顔からつっこんで大怪我をしたこともあります。
勢いで「会社を辞める」という選択はしたものの、とにかく自分に自信がなかったので「3年続けらればどんな仕事にも適応できる」という噂を鵜呑みにして佐川急便の門を叩きます。
自分試し、キツイで有名な佐川急便へ入社。
「3年経つまでに自分の人生をかける職業を見つける、それまでは耐える」と決意し、入社。
ここから地獄の日々を耐えしのぎます。
冬の配達で、手がかじかんで感覚がなくなって泣きながら配達をしたこともあったし、完全なるパワハラ厳しすぎる指導で家に帰ってもご飯を食べられない日が続くこともありました。
この時期がこれまでの人生で一番辛かった時期だと間違いなく言い切れます、入社からわずか2ヶ月で10kg痩せたので。
丸1年位は毎日泥のように眠る日々。
こうした時期をなんとか乗り越え、佐川急便のドライバーとして通用するようになり、少しだけ自分に自信がつきました。
もちろん辛いことばかりではありませんでした。
毎日顔を出すお客さんから会社名の「佐川さん」じゃなくて一個人の人として「ぼりくん」って呼んでもらえたのは本当に嬉しかった。
退社するときには「ぼりくんじゃなくなるならもう佐川急便を使う理由もなくなるね」
と、涙を流すほどに嬉しい思いもありました。
ちなみに最終的に、退職する前には営業成績優秀社員になって退社を迎えることができました。(ドヤァ)
ほんと厳しい世界でしたが、今でも変わらず接してくれる大好きな先輩にも巡り会えたので、本当に入社して良かった。
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そして佐川急便に勤めて2年目の頃にぼくは「BBQ」そして「料理」と出会います。
”平凡”が目標だったぼくが見つけた小さな夢
ぼくは佐川急便に勤めていたため、20歳にしてはそこそこお金はあったので、夏にBBQセットを買い揃えてみました。
そして「みんなで楽しむ場を自分が企画する」という楽しさにドハマり。
友人みんなを招いて、毎年海の日になると「ぼりの海の日BBQ」と銘打ってBBQを開催し、1人で40人を越える友人を集めて主催するくらいに本気でした。
そこで振舞う、料理と呼べはしないような料理でみんなが喜んでくれるのがすごく嬉しかった。(焼きそば焼いてパンにはさむとかそんなレベル)
「誰かの「思い出に残る場」を自分がつくれたら幸せだな」と強く思いはじめます。
これが、ぼくが料理の世界に踏み込んだきっかけです。飲食店をひらくってことで実現できるんじゃないかなって思って。
こっそり始めた小料理屋の皿洗い
「料理を仕事にしたい」と思いつつも、なんとなく行動に移すのは怖い。
なかなか行動に起こせなかったぼくに対して、話を聞いていた友人から痛烈な一言を言われます。
「お前やりたいって言っとるだけで実際なにもしてないやん」
「ホントにやりたいんならすぐに動き出してみろや」
ド正論過ぎる言葉にムキになったぼくは翌日、配達先の小料理屋さんに「洗い物でも何でもするんで見学がてらカウンターに立たせて下さい。(佐川急便の)シフトが不安定なのでお店の希望に沿った日にはこれないのでお金はいりませんので」と懇願。
元々顔見知りだった為、すんなりOKを貰えました。
今でも、自分にハッキリとダメ出ししてくれた地元の友人に感謝しています。
そして、勢いとはいえこの頃から「自分で選ぶ人生」がはじまりまったなって思ってます。
接客業の難しさや料理の奥深さにちょっとだけ触れて、「面白い」と思えたぼくは佐川急便を4年勤めた時にいよいよ板前修行に乗り出します。
板前修行〜大阪へ〜
最初に門を叩いたのは店主の修行時代の先輩のお店、大阪北新地にある割烹料理屋。
日本一治安の悪いと言われる大阪市西成区の1Kアパートに3人で住むという劣悪環境でした。
とりあえず「ここで寝て」と言われたのはキッチン。
とにかく怒られる、殴られる、蹴られるみたいな感じの1年を過ごし、どうにか下積みを脱出。
と思ったその矢先、わずか半年でお店が潰れるという奇跡が起きました。
今でこそ「板前になりたいって地元離れて1年半で修行先潰れるとかなかなか貴重な体験した〜!笑」とかってちょっと小ネタみたいに話してるけど、当時は本当に笑えなかった。
魚屋のアルバイトで掴んだ東京行きの切符
突然修行先がなくなり、途方に暮れて居た矢先「まだ板前修業を続ける気はあるか?」と大阪の修行先を紹介してくださった小料理屋の店主さんが一言。
即答でイエスの返事をしたところ、石川県近江町市場の魚屋さんで魚捌きのアルバイトに入ることが決定。
そこからわずか3ヶ月、目の前のチャンスはなんでも掴むつもりでいたのですが、買い物に来ていたお客さんの紹介で東京(赤坂)の有名料亭への就職が決定。
板前修行〜東京へ〜
料亭への就職が決定して配属されたのはまさかの本店、東京は赤坂。
とにかく歴史を重んじるゴリゴリの縦社会でした。
基本的に違和感を感じたら口から出てしまうタイプだったのですが、ある日のささいな口答えがきっかけで完全に居場所を失いました。
- 仕事を与えてもらえない
- 雑務さえも教えてもらえない
- 失敗したあとに「そんなこともわからないのか」と罵られる
そんな感じの日々が1ヶ月ほど続いたあと、支店のある名古屋に「出張」という名目で飛ばされました。
たぶん、思ったよりすぐに辞めなかったから厄介払いしたかったんだと思います。
「東京に修行しに行く」と地元の友達に胸を張って上京したぼくは、1ヶ月で名古屋に飛ばされてそこから半年働きました。
ようやく東京に戻る指示が出たところで、「あのお店に戻ったらたぶんぼくはもう持ちません」という涙ながらの意向を汲んでもらい、都内にある青山の2号店へ。
ここで4年間の修行に耐え、お刺身を切らせてもらえたり、現場の指揮をとったりする立場にまでのし上がってきたところで板前人生最大の転機、「退職/脱サラ」を迎えます。
「板前修行」を辞めた3つの理由
4年間の東京修行のうち、自分の中の価値観を変える&明確にする3つの出来事がありました。
- 料理が好きでたまらない訳じゃない
- 大好きな先輩が業界に潰された
- 一つの収入源に依存するのは危険だと知った
そしてこのきっかけがそのまま板前の世界を離れた理由です。
①料理が好きでたまらない訳じゃない
料理は割と好きです。
目の前にある食材をどうやって自分の手で美味しい食べ物にできるのか。
自分にできることはなんなのかをその場で考えることや、自分の手で材料が美味しく料理できたときはやっぱり楽しいです。
だけど、料理のことだけを考えて生きていきたいかといえばそこまででもない。
と、このくらいの感じ。
ぼくの同期に「料理が好きで好きでたまらないやつ」がいたのですが、そいつは何かひとつ疑問があればすぐにググるし、そこから派生して、「あ、じゃあもしかしてこんなこともできるのかな?」って休憩中にも調べているようなやつでした。
そんな同期を横目に「ここまで料理に没頭できねぇな…」と感じたぼくは少しずつ、何の迷いもなく考えてきた「料理一本で生きていく」という自分の将来に不安を覚えます。
好きで好きでやっている人間に、努力で立ち向かおうとしても到底かなわないから。
ぼくは修業中からこうしてブログも始めていたし、おやすみの日は勉強を兼ねて食べ歩きとかってタイプでもなかったので、ぐんぐん差をつけられていく実感があり、焦りはじめていました。
②大好きな先輩が「業界」に潰された
そしてこれが「残りの2つ」に気付かされた決定的な事件です。
修行先の料亭にいた大好きな先輩が、会社内のいざこざに巻き込まれて鬱になって会社を辞めてしまいました。
この事件がきっかけで退職を決意。
次期料理長の候補にあがったのが先輩です。
ところが先輩は「下積み時代に支店料理長に仕事を教えてもらっていた」という経緯があったので「育ての親を裏切ることはできない」という理由で社長からの話を断りました。
結局、どうしても支店料理長をトップから下ろしたいという社長の意向は変わらず、現場歴の長かった本店の方を料理長に据えて、補佐として先輩を起用するという形で人事の異動が決定。
これがすべての引き金となりました。
板前の世界は「黒のヤクザと白の板前」と例えられるくらい義理人情に厚い世界です。だいたいの「板前」は横の繋がりで形成されてるんです。
その横のつながりのなかで「あいつ(先輩)は育ての親(支店料理長)を裏切った」と噂され、今まで先輩と関わっていた板前の世界の人たちがこぞって連絡を断ち「あいつとは関わるな」という話が出回りました。
板前の世界にかなり大きな影響力を持っている連合だったので、その世界で生きている一個人が潰しにかかられたらひとたまりもありません。
中学を卒業してから板前1本で生きてきた先輩は、自分が今までずっといた板前の世界から干されてしまったことが理由で気を病み、鬱になり、現場に立つことができなくなりでした。
昔から頭ごなしに何かを言われることには全力で歯向かっていた自分にとっては、もはや決定的な事件でした。
今また同じ場所にタイムスリップしたとしてもぼくは同じ行動を取ります、間違いなく。
③一つの収入源に依存することは危険だと知った
この事件で気づいたもうひとつのこと。
それについても先程の記事の中に記してあります。
他の店舗で働いた期間を含めて合計しても、たかだか6年程度しか板前の世界を経験していない半人前のくせに偉そうかもしれませんが、ぼくはこの件が起きたことで板前の世界観には2度と触れたくないと本気で思いました。
ぼくは「たまたま」悪い面を見てしまっただけで、「板前の世界観」の全てを否定する気はありません。でももう無理でした。
そしてもう一つ。これは先輩が聞いたら気を悪くするかもしれないけれど、『「組織に属していないと生きていけないこと」がどれだけ危険なことなのか』ということを目の当たりにしました。
降格になった料理長も先輩も、「他の方法でも生きて行く力(組織に依存しなくてもお金を稼ぐ方法)」を身につけていれば、「自ら会社を辞めて別の道に進む」という選択もできたのかもしれません。
でも、長い板前修行に没頭するあまり、それを考えずに「何か(組織や企業)に依存していた」んだと思います。
だからぼくは会社を辞めて、まずは「自分でも生きていける力」を養った上で、自分の意思で仕事を選びたいと思った。
ひとつの収入源しか持たないということは、その収入源がないと生きていけなくなるということ。
何かひとつのことに依存してしまったとき、人は「選択肢」を失います。
フリーランスで生きていようが、会社員で生きていようが、自分の選びたい方法を選んでいるのであればいいと思うのですが、「選べない」という状況だけは作ってはいけない。
そういった思いから、「個人事業主としてまず月10万円稼ぐ力をつける」という目標の元、完全なる勢いで独立しました。
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独立後、そっこーで壁にぶち当たる。
当然すぎる結果でした。
なんの計画性もなくフリーランスとしての活動を開始したぼくに行きていける分の仕事なんてなかった。
そして、もともと佐川急便→板前と、毎日14時間くらい働いて週に1回くらいしか休みがない仕事をしていたので、急に時間がぽっかり空いたぼくにはこの空白をどう埋めたらいいのか全然わからなかった。
今すぐなにかしなきゃいけないのはわかってる。
でも、何から手をつけたらいいのかわからない。
行き詰まったぼくはあるフリーランスの先輩にカフェで相談をしました。
たぶん、死にそうな顔をしてたと思う。
そんなときに先輩から言われたのが、「もし、なんでもしていいって言われたらぼりくんはなにしたい?」の一言。
ぼくはふと「田舎でBBQがしたいです」と答えました。
今でも頭の悪い答えだなって思います。でも、本心の一言だった。
その夜には、「地元石川県の能登に移住しよう」という意識が70%くらい固まっていました。
これが地方移住を志したタイミングです。
そこから移住まで2年。
個人としての本格的な活動がはじまります。
まずは「場所を問わずに働けるようになること」を目標に。
料亭をやめてからの1年間
ぼくは「店を持たない板前」という肩書で個人活動をスタート。
退職と同時に、三軒茶屋にあるシェアハウス「ハイパーリバ邸」の設立の為のクラウドファンディングに挑戦し、200名を超える方から190万円強の支援を頂き成功。
1年間はシェアハウスの管理人と、板前を軸としたフリーランスとして活動をしてきました。
「店を持たない板前」としての活動は幅広く、
- イベント出店
- ケータリング
- 料理教室
- レシピブログ
- 個人宅への出張会席料理
- BARへの料理納品
- オンライン料理サロンの和食講師
など。
ぼくは板前修業を続けてきた中で抱いてきた小さな「しこり」みたいなものがあったんです。
それが、料理人の成功は「雇われ料理長」か「店主」という狭い世界観。
ぼくはもっと料理人も自由に生きていいし、形や場所にとらわれずに生きていいと本気で思った。
こういった思いから、1年間、板前の新しい生き方を体現する為に活動をしてきました。
陶芸作家「ユキガオ」さんと全国で食事会を開催する為のクラウドファンディング
店を持たずに活動する板前のぼくと、10年間のサラリーマン生活から陶芸作家に転身した「ユキガオ」さんと共に、自分たちの料理と器に実際に見て、触れて、食べてもらいたいという想いで、全国での食事会を企画。
クラウドファンディングにて支援を募り、直接現金での手渡しも含めて、200名を超える方から80万円を超える支援を頂き、東京、名古屋、大阪、高知、と各地で料理と器の展示会を開催しました。
そして、このイベントが終了したと同時に、自分の中で「やりきった」と感じ、「板前」という肩書きに固執することを辞めました。
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【店を持たない板前×陶芸作家】見て・触れて・食べてもらえる作品展を開催したい! – CAMPFIRE(キャンプファイヤー)
東京を離れ、全国の”場”をみてまわる旅。
1年間の活動を通して、自分の本心と向き合って感じたことは、「人のきっかけとなる活動をしたい」ということ。
そもそもは、BBQ主催することが大好きではじめた料理。
このときようやく、「場作り」をして、人の心に残るような思い出や人生を変えるきっかけとなりたかったという本心に気づきました。
そして、一旦全ての活動をリセットし、いろんな「場」を感じに行く活動を開始。
自分の「田舎でBBQしたい」を叶えるために。
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田舎フリーランス養成講座の講師に
東京を離れた後は千葉県にあるコミュニティスペース「まるも」、「hinode」にて開催されている「田舎フリーランス養成講座」の講師をさせて頂きました。
講師、メンター、統括を担当し、受講生の方々と一緒に生活をしながら、(超恐れ多くも)フリーで生きていく為に必要なことをお伝えさせて頂きました。
自分がたくさんの失敗を繰り返してきた上で、「これは正直誰かに教えてほしかったよ…」ってことが山程あったので。
2017年8月いなフリ inまるも
2017年9月いなフリ inまるも
2017年10月半農半フリ in hinode
2018年3月 いなフリ in hinode
2018年8月 いなフリinぼりちゅに邸
2019年4月 いなフリinぼりちゅに邸
2019年9月 いなフリinぼりちゅに邸
これからも、人が動き出す「きっかけ」に触れるような仕事をずっとしていきたいと思っています。
BBQをはじめたきっかけもそうだけど、自分が用意した(作った)場で誰かが楽しんでいたりするのがとても好きです。
ぼくの取り組む全てのことは、「人の記憶に残りたい」という純粋な我欲に突き動かされています。
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2018年4月、地元石川県にて居住期間3ヶ月限定シェアハウス「ぼりちゅに邸(リバ邸能登)」をスタート。
2018年4月、とうとう地元石川県にてスペース運営をスタートしました。
2016年の夏、どうしようもなく行き詰まったときに自分の口から出た「田舎でBBQがしたい」を実現できる場所。
自分と自分が作った場が誰かの人生のきっかけになる場所。それが、”居住期間3ヶ月限定”のシェアハウス”ぼりちゅに邸”です。
人生の”ある期間”を本気で働き方について向き合う期間にしてもらうためのシェアハウス。
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ぼりちゅに邸で大切にしていること
ぼくは、このシェアハウスを運営するにあたって
- 住む人にとっての没頭期間であること
- 環境に依存しないこと
- 好きなだけBBQしたい
を大切にしています。(最後だけアホっぽくてごめん)
ぼくは、フリーになって行き詰まったときにぼくを救ってくれた先輩にはずっと感謝しています。
で、ぼく自身も誰かの記憶に残りたいし、そのためにはぼくが本当に思っていることを体現する必要がある。
そう考えたとき、上記の3つは必然でした。
人が何か行動を変えるときには、なりふりかまわず”没頭”しないとそうそう簡単には変わらない。がむしゃらになる必要がある。
ぼくが料亭を辞めたときに感じたように、「その環境がないと生きていけない」という依存は人の選択肢を殺す。
だから、ぼりちゅに邸には3ヶ月以上住んではいけないというルールを設けてあります。
好きなだけBBQしたいのは、ただぼくが楽しいからです。(わがまま)
ぼりちゅに邸が没頭できる環境になるように、
- 家賃は水道光熱費&通信費込みで3万円
- スポンサー(奨学的な)制度あり
- 全室個室、作業デスク&チェアー完備
と、さまざまな取組も行っています。
ぼりちゅに邸は、ぼくの我欲が存分に詰まったシェアハウスです。
もし本気で興味が湧いた人は、ぜひ没頭しに来てください。
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2018年6月、株式会社リバ邸の立ち上げ&役員に。
また、独立と同時に管理人になった「ハイパーリバ邸」がきっかけで、2018年6月に法人化したリバ邸の役員を務めさせて頂くことに。
ぼく個人でできることだけじゃなく、仕組みとして、法人としても、「誰かの心に残る場作り」を行っていきたいと思っています。
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2020年9月、三茶ジャパン始動。
現在は、ぼくが個人の活動をはじめる原点となった三軒茶屋の地でおじさんアイドルユニット「三茶ジャパン」のレフトポジションも担当しています。
三茶ジャパンの活動自体は完全に「あそび」なのですが、ここまでふざけたのは正直久しぶりなのでとても楽しいです。
いい歳したおじさんになってきましたが、楽しんでるおじさんって素敵だなって思うのでこれからも無邪気に遊んでいきたいなって。
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三茶ジャパン始動。三軒茶屋から日本全国へ羽ばたく、おじさん3人の第一歩を応援!
当ブログ「ぼりちゅにてぃ」を通して体現したいこと
散々書いた通り、ぼくは人の心に残るような「場作り」や、人の「きっかけになる活動」を行っていきたいと思っています。
この自分の活動を通して、常識にとらわれず「こんな生き方もあっていいんだ」と思ってくれる人が出れば、ブログを書いていてよかったと思えます。
当ブログ「ぼりちゅにてぃ」は、英語の「Opportunity(オポチュニティ)=自分で掴み取った機会」をかけて名付けました。
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当ブログのタイトルを「ぼりログ」から「ぼりちゅにてぃ」に変更しました
ぼく自身の日々の活動の中でつかんだ「機会」を、このブログを読んでくれた人の「掴み取った機会」にしてほしい。
そんなぼくの思いを、リアルタイムにお伝えしていきたい。そのお伝えする方法がこのブログです。
ぼくは、工場に勤め始めてから板前になって今に至るまで、転機となるタイミングでは必ず人が関わっていました。
で、その人が言ってくれた、たったひとこととかが今でも明確に記憶に残ってるんですよね。本人はもう忘れてるかもしれないけど。
ぼくも、そうやって記憶に残れる人間になりたい。
関わってくれる人には本気で接していきたいし、逆に自分じゃなくていいことなら価値を感じない。
これからも、自分だからこそできること・したいことに挑戦し続けていきたいなと。
と、こんなかんじの人間でございます!!
長く個人的なぼくの反省の略歴を読んで頂き、本当にありがとうございました!!
どうか、当ブログ「ぼりちゅにてぃ」と「ぼり」を今後ともよろしくお願い致します!!
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