出張料理人やらオンライン料理サロンの和食講師やらシェアハウスの管理人やらブロガーやらライターやら、正直、「あなたの職業は?」と言われたら「わかりません」と答えるしかなくてごめんなさい。
30歳の独身男性、”ぼり”です。
この度、ずっと頼ってきた「板前」という「肩書き」に頼るのはもう辞めることにしました。
この記事は、自分に対してのけじめとして書き起こします。
完璧じゃない料理が最高だった
ぼくはつい先日まで、今年に入ってからずっと一番の全力を注ぎ込んできていた、クラウドファンディングのリターンで、陶芸作家のユキガオさんと共に日本の各地を巡って食事会を開催させてもらっていました。
この食事会では、最初は単純に自分のできる限りの料理を持ち込んで、自分のできる限りの料理をお出しするつもりでした。
ただ、途中でこのプロジェクトで自分の掲げていた目標を再度見直し、ギリギリになって全ての食事会イベントの内容を作り直したんです。
プロジェクト本文より引用
ぼくが料理を始めたきっかけは、友人との間で主催していたバーベキューです。当時振る舞ったのは、料理ともなんとも言えないものでしたが、自分が用意した空間と食事で、みんなが楽しんでくれているのがとても嬉しかった。 こういった「想い出となる場を作ることを仕事としてやっていける人になりたい!」という思いから、自分の店を持つことを目標とし、和食の世界に飛び込んだんです。
せっかくみなさんに頂いた支援のお金を使って開催する食事会なのであれば、みんなが参加者になる食事会にしたい。
そんな想いから、みなさんが食べる料理をみなさんに作って頂く、そして、自分で盛り付けてもらう、という形に。
盛り付け体験、調理体験を加えた食事会の料理は正直、完璧とは言えなかったと思います。
卵焼きとかちょっとこげてたのもあったし。
でも、間違いなく、ただぼくが一人で勝手に頑張っておもてなしをするよりも絶対に楽しい会になった。これだけは自信があります。
「生粋の料理人」ではない俺が今回、各地で開催した食事会で実現したかったのは、やっぱり場作りで、「料理」を通して人と関わりたかったんだなって、今改めて思った。
大成功だった。— ぼりさん (@borilog) 2017年6月12日
高知の食事会で、料理は大好きなんだけど、入院が長くてずっと料理ができなかったって子がいて、その子にだし巻きとか天ぷらの事教えてたとき、めちゃくちゃ目がキラキラしてたし、最後の最後までずっと俺に質問してた。
満足に料理できてる俺が「生粋」じゃないのは申し訳なかったけど嬉しかった。— ぼりさん (@borilog) 2017年6月12日
体験調理のとき、参加者の方から「これ失敗しちゃったんですけど、出さない方がいいですか?」って聞かれたときに「完璧なんて求めてないし、楽しいことが最優先だから、そのまま出そう!」って言葉がパッと出てきた自分のことを恥じてない。
上手な卵焼きとは言えなかったけど、絶対美味しいから。— ぼりさん (@borilog) 2017年6月12日
ぼくはやっぱり「生粋の板前」ではないんだなって改めて認識しました。
決してマイナスな気持ちとかではなく、ただただそう感じました。
「肩書き」を持つこと
ぼくはちょうど1年前の夏に勤めていた都内の料亭を退職しました。
それから今まで「出張料理人」として「店を持たない板前」とかって、自分で肩書きを作って活動してきた。
ぼくは昨年の夏、料亭を辞める際、こんな記事を書いていたんです。
記事中より引用
そもそも、板前を志した時点での「成功図」として捉える未来が
- 雇われの身の料理長
- 独立して店を構える
の2択しかないという視野の狭さである事には何の疑問も持ってこなかった。
そして「独立して成功する」という夢に向かってがむしゃらにやってきたのが今までの現状。
でも本当はもっともっと無数に板前の「選ぶ道」があっていいのだと思う。
板前が渋谷のライブハウスで天ぷらを提供したっていいし、 お祭りの屋台で「寄せ鍋」を提供したって全然いいんだ。
それを板前として邪道だと言われるのなら僕は邪の道を行く。
今までに「板前」が辿ってきた道が全てじゃないと僕は証明したい。
この時にこの文章を書いたぼくはもちろんめちゃくちゃな本気でした。
ただ、ずっとこの「板前」って言葉がなんかしっくりきてなかったのも事実です。
これまで1年活動をしてきた中で、けっこうな頻度で「板前っぽくないね」って言われてきました。
ネガティブな言葉で言えば「料理屋に勤めていないなら板前名乗るな」とか「店に勤めてないのに何が板前なの?」などなど。
いちいちこんな言葉に傷つくことはありませんが、そのたびに「板前とはなんぞや?」って定義を考えるのは正直めんどくさかったです。
でも、ぼくの中にある「こんな板前もいたっていいじゃん」といった反骨心から、意固地に板前を名乗ることをやめませんでした。
それが、今後板前の世界から、何か変わったことに挑戦する人にとっての道しるべになったら超嬉しいなとも思っていたので。
勝手に視野を狭めてた
こうして発信していたら結構いろんな仕事が舞い込んできます。
その中でぼくは「板前レンタル」ってのをやってたんです。
飲食の世界って慢性的な人員不足だから、一時的な助っ人として扱ってもらえればいいかなって。
実際に来たお仕事の依頼はこんな感じ
- 海の家のお兄さん
- カフェのキッチン(パスタとか作る)
- 小料理屋さんの板前代理
もう、板前とかあんま関係ないの仕事の方が多いんですよね。
で、最初の方は「板前関係ないじゃん」って断ってたんですけど、そもそもなんで「板前」に固執してるのかなって思ったんです。
「依存」に感じていた怖さ
ぼくは以前、こんな記事も書きました。
尊敬する先輩が「板前の世界観」に消された、ぼくは料亭を辞めた。
記事中より引用
「組織に属していないと生きていけないこと」がどれだけ危険なことなのか』ということを目の当たりにしました。
降格になった料理長も先輩も、「他の方法でも生きて行く力(組織に依存しなくてもお金を稼ぐ方法)」を身につけていれば、「自ら会社を辞めて別の道に進む」という選択もできたのかもしれません。
でも、長い板前修行に没頭するあまり、それを考えずに「何か(組織や企業)に依存していた」んだと思います。
だからぼくは会社を辞めて、まずは「自分でも生きていける力」を養った上で、自分の意思で仕事を選びたいと思った。
これって、「肩書き」についても一緒だなって。「板前」としてじゃないと自分の価値を提供できないのであれば、板前という肩書きに頼れない仕事はできなくなる。
それじゃ、ぼくにとっては意味がないんです。
「肩書き」なんて、なんでもいい
肩書きなんてその時々で変えればいい。というか、まわりの人が認識しやすいなら、別に勝手に決めてくれればいい。つまり、なんでもいい。
少なくとも、既に存在する仕事の中に自分がしっくりくる形がないのであれば無理に合わせる必要はない。
これでいいんだと思う。
板前がなんか色々と変なことしてるってのは正直目立ちやすかったけど、今ぼくが目指すゴールがそこにはないから、もうそれでいい。
一個人、「ぼり」を肩書きとして、自分のできること、そして自分だからこそできることを仕事にしていく。
料理と自分
料理はこれからも、誰かと一緒に楽しむ時間を共有していくために続けていけたら嬉しい。
その方法を、料亭を辞めてからの1年間、手探りで探してきたみたいにまたこれから見つけていこうと思います。
ここ数ヶ月、正直、クラファンが終わったら、もう料理とは離れようと思ってたけど、やっぱ違う。
「板前として」とかじゃなくて、もっと別の関わり方で俺はきっと料理を楽しめる。
自分が純度100で料理を楽しめる方法、もうちょい深く探そう。
でも、「板前」って肩書きはもういいや。— ぼりさん (@borilog) 2017年6月12日
料理を自分の為に趣味で作ってて楽しい人ってほんの一握りだと思う。
大多数は、食べてもらう人のことを考えて作ったり、だれかと一緒に作ったり、何かを「楽しむ」って気持ちでやってるんだと思う。
その上で、ちょっと誤解を生みそうな言葉で言えば、俺はやっぱり「料理が好き」な料理人ではない。— ぼりさん (@borilog) 2017年6月12日
「板前」と呼ばれるなら板前でいいし、「飯作る人」ならそれもいい。
肩書きにしばられてたまるか。— ぼりさん (@borilog) 2017年6月12日
以上、ぼりでした。