ぼりです!
友達との関係って、いろいろ考えることはあるけれど「疲れる」ものではいけないと思うんです。
その基準が「付き合い」と呼んでしまう関係性になってしまっていないかどうか。
ぼくはその関係はそもそも友達関係ではないと考えます。
付き合いと呼ぶ関係
人には「自分がいたい居場所」というものがいろんなところに存在します。
地元の友人や、地元からは遠く離れた場所で築いた友人関係、恋人もそう。
熱い話で盛り上がれる友人や、生産性とかは関係なく一緒にいてただただ居心地がいい人。
そして、それぞれの場にいる自分は全て偽りのない自分であるはずです。
例えば、大学の友達と高校の友達でノリが違うからって、どちらかの自分が嘘をついているわけじゃありませんよね?
そこにもし気疲れを感じてしまうのであれば、その場所は自分自身を偽ってしまっている「付き合いの場」なのかもしれません。
そして、居心地がいい相手に対して人は「付き合い」とは言わないとおもっています。
付き合いと友達の違いってなんなのか
まず大前提としてぼくは「付き合い」と呼んでしまうような飲み会はかなり嫌いです。
- 会社の先輩のグチを聞くだけの飲み会
- 同期でグチをこぼしあうだけの会
- その場にいない友人の陰口をいう会
- 何の理解もない相手にいきなり友人呼ばわりする
こんな感じの会は全て嫌いです。
じゃあそれとは違う「友人関係」とはなんなのか。
それは「自分がいたい居場所」なのかどうかです。
そこでは一旦、相手からどう思われているかどうかは関係ありません。
友達と捉えるのは、まずは一方通行でいい
以前ある友人が悩んでいたことを少し書き起こします。
最近の疑問。
「友達とは?」「友達の定義」— AYaKa (@ai_mirai15) 2016年8月10日
彼女は友人だと思っていた方との意識の食い違いでこの問題にぶつかったそうです。
ぼくなりに感じていることをそのままリプライさせてもらいました。
@ai_mirai15 すごく素敵だと思います!でも、寂しい事を言うと、ぼくは「友達」って感覚は全部こっちからの勝手な主観だと思ってます。
その上で、少なくとも自分が友達だと思えない人から友達とは思ってもらえないと思うので、自分が好きな人は勝手に友達だと思ってます(^^)笑— ぼり@板前ライター (@borilog) 2016年8月10日
このとき、なんとなく友達関係についてのお悩みに答えた形になっていますが、これは改めて自分の意識を認識する機会でした。
自分がまずは友達だと思う人に向き合うことから。
これは人としての直感的な部分なので、「なにが友達である理由なのか」みたいなことは関係ありません。
友達でいたい、友達でありたいと思ったら少なくとも自分は友好的な意識でいればいいのだと思っています。
友達の捉えかた
たぶん、友人という言葉に含まれる意味が広すぎて、人それぞれで食い違いが起きることが多いのだと思いますが、ぼくは単純に自分が直感的に友達でいたい(なりたい)と思ったらとりあえず友達です。まあまあ身勝手ですね。
だから、現在を生きている中で関わる人はもちろん、これまでに関わってきた友人がいつの間にか友人でなくなっていることはありません。
距離、付き合った時間、全てにおいて関係なく、ただただそう思っていればいいだけです。
言えば、会えば、伝わる事はある
ぼくはブログをはじめてから、現在のぼくと疎遠になっている友人から正直かなり心配されました。
それは今までの友人からしてぼくの行動が、今までの知っている「ぼり」の枠から外れたからです。
先週、お盆期間に地元石川県に帰りました。
その時に地元の友人と久しぶりにちゃんと向き合って話したときに言われたことは「ぼりがぼりであるならそれでいい」ということ。
ぼくは6年前に地元石川県を離れ、多くの人、そしてこれまで知らなかった世界に触れてきました。
こうして今、ブログを書いていることも含めて、数年前の自分とはかなり変化したなって自分で感じます。
でも、根幹の部分は変わっていません。ずっと時間や距離のあった友人から見たらそこが心配だったように感じます。ぼくは「自分という本質は全く変わっていないから安心してほしい」とだけ伝えました。
これからもぼくは色々と挑戦するし、その現状を全て理解してもらおうとも、理解してもらえるとも思っていません。
だけど、ぼくの「根幹の部分」さえ伝わっていれば友達とは繋がっていられます。
友人がいないのは寂しい
色々と書いてきましたが、結局は友達という存在になにを求めているかって言ったらコレに尽きます。
ぼくは今の自分がこれまで友達だと思える人のおかげでできてきたものだと心から感じています。
だから、今現在特に連絡をとっていない友人も大好きです。かなり。
そしてそういった「思い出」がそのまま人生の豊かさです。
これはもう揺るぎません。
そしてその思い出は全て、人との関わりの中に生まれます。
だからぼくは人と関わっていたいし、友達だと思える人と時間を過ごしたい。
ちょっと磨耗してもぼくは自分が友達だと思った人とは関われる限り向き合います。
それがないと、どれだけこれからどれだけ事業を拡大しようとお金持ちになっても、何のために頑張っているかもわからないし、充実感も得られないので。
なんというか「空っぽ」で「虚しい」感覚になってしまいます。
友達が多いとか少ないとかは関係ない
友達が多いから少ないからということはそもそも信用性とは関係ありません。
大切なのはこれから関わる人、これまで関わってきた人と向き合っているかどうか。
その人数が多ければ友達は多いんじゃないか、それだけです。
そして、今の自分と話が合わなさそうだったら友達とは呼べないのか。
そんなことはありません。
自分が向き合いたいと思える相手が自分と向き合ってくれていれば、今の自分が全然違う場所や意識環境にいようと「友達」です。
現状の全部を理解してもらおうなんて無理です。
でも自分という変わらない人間の根幹は全ての人に必ず存在します。
その部分をお互い見つめることができていれば、時間や距離に関わらず「友達」でいられるのではないでしょうか。
これがぼくなりの「友達論」です。
以上、ぼりでした!